034238 ランダム
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明日にかける魔法

「そら豆を喉に詰まらせて」

江戸のさる長屋に長介という男がおりまして、嫁のお松と一緒に暮らしておりました。
この長介という男は、どうにもならないほどのぐうたら亭主でありまして、「あそこの夫婦はそのうち別れるね」なんて、もっぱらの噂でした。
近年、江戸付近では長年の雨不足で作物が取れなくなり、深刻な食糧不足に悩まされていました。
それによって家業の農業が上手くいかず、働く意欲を無くした長介であります。
しかし、しっかり者のお松は食料がないなりに工夫をして、家計のやりくりをしながら駄目夫の長介の奮起を待っていたのであります。
「長介なんか豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまったらいいのに」と、有り得ないことを囁く長屋の住人もおりまして、長介の駄目っぷりも日に日に増して行きました。
そんなある日のこと、お松が丹精込めて作った売り物の饅頭が台所から姿を消したのであります。

「あんた、台所にあった饅頭しらないかい」
『いや~知らないね。見かけてないね~』
「そうかい、変だね~。ちょっと出掛けたすきにネコでも入ったのかなね~」
『そうそう、ネコの鳴き声がしてたよ』
「そうかい、戸を閉めてたのに可笑しな事もあるもんだね~」
『そういうもんさ、世の中有り得ない事だらけよ』
「そうだね、私はまた饅頭の材料買いに出かけるよ」
『おう、いっといで~』
お分かり事とありますが、饅頭は長介が食べたのでございました。
その日はそれで終ったのでありますが・・・。

翌朝もお松は饅頭を作って台所において出かけたのでありますが、またまた長介が饅頭をパクリと食べてしまったのであります。
このことが騒動とならない訳はなく、お松を怒らすことになったのは言うまでもありません。
「あんた、また饅頭が無くなってるよ。いったいどういうことかね」
『お~またネコが持ってったのか、こんちきしょうめ~』
「あんたね~ネコネコ言ってるけど、ネコなんてここ何年長屋付近どころか江戸でも見てないよ。食物が無いせいで居なくなったの気づかなかったのかい」
『そんな、バカな話しがあるかい。ネコぐらい居るだろう~そこらへんに』
「あんたがね~ぐうたらして家から出ないから知らないだけよ」
『じゃ~お前は昨日の俺の話がウソだって気づいていたのか』
「あたりまえだよ、あんた。私はそんなにバカじゃないよ。あんたの馬鹿げたウソに付き合ってあげただけよ。も~うこんな生活はうんざりよ」
家を飛び出したお松。それを追いかける長介。怠けていた長介の脚力では追いつける訳もなく、お松の姿は見えなくなってしまいました。
お松を見失った長介は途方に暮れて町をブラブラと歩いていました。
すると、芝居小屋の方から楽しげな笑い声が聞こえてきたのであります。
芝居小屋の前に立て掛けてある看板には「桜子&明日の奇術師、江戸幕府公認笑い伝道師来る」と書いてあったのです。
これは面白そうだと思いながらも、お松の事が気になって足踏みしていたのですが、そこは天下の駄目夫でありますから、ついついと芝居小屋の中へと吸い込まれて行きました。
芝居小屋は満員御礼の入りを博しており、舞台上の2人に熱い視線が集まっておりました。
そんな賑わいの中で長介が見たのは、舞台上のお松と瓜二つの桜子であります。
「ど~ゆうこって~一体全体よ~」と、一人ぶつぶつと疑い呟きながらも、
あまりにもお松とそっくりな桜子と明日の奇術師の絶妙な話のやり取りに、心奪われていく長介でありました。

「いやね~私達2人お互いに好いておりまして」
『ちょっとお待ち、わたしゃ~あんたのことなんか気にもかけちゃ~いないよ~」
「おいおい、今さら何言ってんだい。昨日も言ってたじゃないか~ほら~ほら~」
『何を勘違いしてるのかね~この人は』
「じゃ~なにかい、昨日のあの言葉はウソだって言うのかい、え~」
『昨日昨日って、いった私が昨日何を言ったって~』
「おいおいお前さんよ~こんな大勢の人様の前で言わすきかい。恥ずかしいったらありゃしないよ」
『さ~皆様の前で言ってみな~言いたい事があるんだろ』
『おっお~言ってやるさ、言っちゃうよ。人様聞いてるけど、言っちゃうよ』
「さあ、早くお言い。モジモジしちゃって、可笑しな人だね」
『昨日のほら、夜の稽古のときによ、俺が聞いただろう』
「何をさ」
『あれだよ、あれ、ほら、なんだ、それの、あれだだよ』
「だから、いったい何をさ。もう私帰るよ」
『帰っちゃ駄目だろう。今は舞台の上だよ、皆さん俺達を観に来て下さってんだよ。忘れてないかいお前さん』
「あら、私としたことが、嫌だね。あんたが写っちゃったよ」
『おいおい、皆さん笑っているけれど、俺は笑えないよ。何かい、俺はそこらの疫病かい』
観客の大きな笑い声に包まれながら、一人難しい顔をしている長介がいました。
桜子にお松の姿を重ねて、ふと寂しさが胸を揺すったのです。
思い起こせば、ここ何年も、お松に迷惑を掛けっぱなしだった、自分が恥ずかしく思えてきたのであります。
それと同時に、大切な人を失う怖さ、寂しさ、辛さで、一人震えていました。

舞台上で軽快な笑いを振り撒く二人に、更なる熱い拍手の嵐が吹き荒れていました。
『昨日、聞いただろう。俺を一言で例えるなら、どんな存在だって』
「ああ、確かにそんなことあったね」
『だろ~、思い出したかい』
「それが、どう関係あるんだい」
『あの言葉は、あれだろう。愛の告白ってやつだろう。そうだろ』
「えっ、あれがなんでだい」
『だってそうだろうよ。そら豆が喉に詰まるくらいの存在って言ったんだぞ』
「言ったけど、なんであれが愛の告白になるんだい」
『要するに、苦しいってことだろう。俺のことを考えると胸が苦しくて、息もできないほど好きってことだろうよ。恥ずかしくって、素直に言えなかったんだろう』
「は~、あんたは本当におめでたい人だね」
『どういう意味だい』
「あんたほど、自分の良いように解釈する人が、おめでたい人って言うんだよ」
『それなら、あの言葉の真意はなんなんだい、いったいよ』
「あんた知っているかい、豆腐の角に頭をぶつけて死ねって言葉を」
『ああ、知っているともよ。憎らしい相手に、言い表しようのない怒りをぶつけた言葉だろう』
「まあ、そうともとれるけど、それだけじゃないんだよ。有り得ない話しなんだよ」
『おう、確かに有り得ない話しだな』
「だから、それと同じで、この不作続きの今に、そら豆を喉に詰まらせる事なんて、有り得ない事なんだよ」
『おう、確かにそら豆も見ねえし、詰まらせたって話しも聞いた事ねえな』
「だから分かっただろう。あんたの存在自体・・・」
『有り得ないってか~』
「そうそう」
会場の賑わいとはかけ離れた次元で話しを聞いている、長介はといいますと、自分のことを言われているようで、深く考え込んでいました。
お松にとって、自分の存在はどうであったのか。
ここ何年の自分の行いを振り返ってみると、お松に頼ってばかりで、自分はお松のために何もしてやれていない。
そればかりか、嘘をついてお松を怒らせてしまった。
お松のことを考えれば考えるほど、今までに感じたことのない、自分への苛立ちと怒りで、壊れそうになっていました。
お松の優しさ。お松の笑顔。お松の大切さ。頭の中は、お松でいっぱいになり、ついに長介は気づいたのです。お松を愛している自分がまだいたことを。
『お松、愛しているよ』、気がつけば大声で叫んでいました。

芝居小屋をでた長介は決意を胸に、ある場所を目指していました。
移り往く町並みも、人々の活気ある声も、今の長介には存在していないかのように映り、
自分の中に芽生えた感情だけが、はっきりとした存在かのように、一歩一歩を踏みしめていました。
「自分の為ではなく、お松の為に何かをしなくては」
何度も何度も心の中の声が、長介の足を速めていました。

人を愛する気持ちだけが、人を豊かに大きく変える。
喜び、怒り、憎しみ、その他の感情も愛する気持ちに勝るものはない。
長介がそのことに気づくのはもっと先のことになる。



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